イタリアのマダムたち

2011.05.06

イタリアのマダムたちは、人の好いおおらかな温かさとマニッシュな外見で私を魅了した。気持ちが沈んでどうしようもない時でも、家の近くの靴屋の女主人や美しい宝石店のマダムの、ほんの一言の「ありかとう」とか「いい週末をね」という挨拶に私は心慰められた。目尻に皺をたくさん作って笑いかけてくれたその笑顔を、今も忘れることはできない。東京で活躍する友人たちからひとりだけ取り残されてしまったような焦りと孤独感の中で、パリやミラノの女たちを観察することだけが楽しみだった。堂々とした彼女たちの、女を生きる自信や誇りに触れ、それを自分の中に取り込もうとすることで、私は希望を失わずにすんだのだ。あんなふうになりたい、素敵に年をとりたい。そう願う気持ちが、いつしか自分自身を取り戻し、もう一度ゼロから仕事を始めてみようという勇気と決心につながっていったのだと思う。三十二歳から三十五歳の終りまでという、若かった時代から中年にさしかかるちょうどその時期に、幸いに大人の女性たちを知ったことは私にとって大きな財産になった。もし彼女たちに出会わなかったら、私は「女らしさ」の本当の意味を知らず、ただ年をとることを恐れて、あるいはあきらめきって、若くもなく大人にもなりきれない中途半端な状態のまま、年齢だけをいたずらに重ねていったことだろう。今、四十代に近づいた私にとってお手本ははっきりとミラノのマダムたちになった。若さに代わるもっと奥深い魅力を身につけたゴージャスな現役の女たち。しかしそれだけではない。人生の悲しみをことさら嘆くわけでもなく、むやみにあがいたり投げやりになることもなく、明日が来ればまた淡々とカンツォーネの一節でも口ずさみながら朝食の支度をする、そんな生き方に憧れるのだ。それはどこかイタリアという国にも似ている。国も女も、何か計り知れない底力を秘めている。そのことを思う時、私はいつも熱い思いに満たされるのである。